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部分への試作
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- 2006/12/05(Tue) -
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写真用語としてのエスキースな品々。
「部分って、一体、何者だろうか?」 部分、部分、ぶぶん、部分。 けれども私は「部分」を撮りたいんじゃないんだよ・・・。 「全体←→部分」?「部分 ⊃ 全体」? 論理では思考がすすんでかない。。 もちろん、そういう思想はいくつもあるのだろうし、 有益な参考文献もあるでしょう。 でもでも、それではあまり意味がなく、 それは最後の最後の、後付けで構わない。 自分で考えなければ、感じなければ、「私が」撮る意味がない。 私は、人を切りたくない。だから部分なんて撮りたくない。 これ真実。これはなんにも矛盾してない気持ちなんだ。 できれば、人物の全身をイメージサークル内に収めたい。 しかし、写真という道具にとって、それは、その長所を十分に活用出来る 手段ではない気がしています。 私なんかは、普段の生活で、周囲を詳細なピントを合わせ、観ることなんてない。 ほかの人たちもそうじゃない?漠然とした「眺む」という視線で、見てるでしょ? 人を見るにしても、おぼろげな全体性を、イメージとともに感受しているはず。 それが、「観る」に付帯する主体性であり、自由の領域であると思う。 そして、それは、映像に関わる作り手側にとっての、フィクションの問題と 大きく関わってくる。実際にフィルムの乳剤面に焼き付けられる画像に、 手を加える、つまり、露出や、絞りを変えることで、画のコントラストや色みや、 ボケみを加えることで、より自分の内的な映像と近づける。 フィルムで撮影しようが、デジカメを使おうが、それは関係なく、 写真はもう始まりから、フィクションなんだ。 そこで、あとは階層の問題なんではないかと思うんだ。 35mmフィルムを使用したり、人を遠景の中に捉えたり、 プリントの段階でコントラストを高くしたり、フィルム増感で 粒子を粗くしたり・・・・、そういう方法をとる場合は、もともとの 写真の画像自体が、粒状性が低く、人物のきめ細かい肌の質感を 表現出来ない。つまりは、もともと、フィルムに焼き付けられた画像自体が、 フィクションであり、象徴的なものとなる。そして、そのイメージ性の強い 画像を、さらに脚色してプリントするわけだから、さらにイメージ性の強い、 象徴的な作品に仕上がる。自分の作品で、見る側により大きく豊かなイメージを 喚起させようとするなら、こういう方法を取るといいだろう。 一方、「4×5」や「8×10」や、高解像度(1600~3000万画素)のデジカメなどを 使用する場合は、上とは、少し階層が現実に近いところにある。 上のような手法が、現実の水平軸から、4段階、5段階はなれているとすれば(*離れる程、イメージ性が増すとします)、こちらの方法は1段、2段の世界。より、イメージ性は低く、象徴性も低い。もちろん、フィルムにのっている画像の話です。 では、肝心な鑑賞者が感受する作品の「力」の問題。 上の方法と、こちらの方法では何が違うでしょうか? ここで先ほどの、私たちの日常での視線が大きく関わってくると思います。 現代人の視線と言い換えてもいいかもしれません。 私たちは、ものを近くで仔細に観察することをあまりしなくなりました。 情報が多いためか、世界が停滞しているためでしょうか、はたまた、 現実のリアルな世界をあまり信じられなくなっているためでしょうか。 大体の感覚で物事を測り、判断している、そんな日常です。 そうしないと疲れますし、他との壁をあまり侵さないでおこうという、気持ちも あるのでしょうか。 ですので、「現実」の軸に近い高解像のカメラを使った画像は、一見、 現実と近しい存在と見え、逆に、私たちの日常の眼とは、遠い存在。 長年つれそった夫婦でも、相手の顔の隅々まで仔細にピントを合わせて、 見続けるなんてことは、ほとんどなく、一生分計算しても、2時間程度 ではないでしょうか。まったくの予想ですが。 そんな粒状性の高い写真は、何を伝えるか。 35mmのような高いイメージ性を追求することは出来ません。 ですが、被写体に向かう意識は、より強いでしょう。実際の被写体の肉体です。 35mmが被写体の性格や、思い出を豊かに喚起するのなら、 高解像のカメラが伝えるのは、被写体のイマージュを限りなく排した姿。 自分の年老いた父親を撮る場合など、普段の生活ではよく見えていなかった(見ようとしなかった)、年老いた老人のシミや、皺や、乾いた皮膚など、その人の生きた年輪が、 印画紙上にありありと写し出されます。イメージ性が低いため、美化されません。 汚いものは汚いまま写ります。あとは、その汚さを、鑑賞者が美しいと思うかどうか。 どういう「美」を求めるかといった、問題とも関係してくるのでしょうか? 撮り手次第です。 部分と全体の問題から、逸れていってしまいましたが、 以上のような拙い考えから思うことは、最近の私は、 毛穴にまでしっかりピントの合った粒状性の高い写真を望んでいるということ。 それはイメージに飽きたのか、まあそんなこともない気がするので、 おそらく『実感したい』という気持ちが最近強いのか、 あとは、人の皺やシミの魅力に魅せられたからでしょうか。 年老いた人間の顔など、本当に美しい芸術品だと感じます。 ひきの写真では、それを表現することはできません。 鑑賞者も、視点がふらついて、刻まれた皺を注視できない。 一つ、私が「寄る」理由が明らかになったと思います。 あとは、被写体との問題。 「寄り」なら「寄り」で、「部分」に成り下がらないためには? 言葉の上では、部分を撮るのだが、しかし部分に成り下がらない写真。 目指すべきはソコ。 どんな人にも、その人を、最も如実に表している部分があるはずです。 しかも、全体を眺めていては分からない、普段気がつかない、そんな一部が。 それを切り取ってこそ、「寄る」責任をまっとうできるといいますか、 寄ったからには、そこを見つけなければ、帰ることが許されない。 そんな領域だと思います。写真にしても、映画にしても、カメラが「暴力」として、 被写体にはたらくような写真は、私の望む所ではありません。私がこの人生で撮る写真でも ありません。ですが、「寄る」ということは、自然に被写体にプレッシャーを与える 圧力がありますから、一種の、暴力性を常に内包しています。 それで写真自体も荒んだ暴力性を持っていれば、それは人間性の浅いくだらない人間が撮った、ゴミ写真です。 ですから、「寄り」の写真にこそ、人間力といいますか、人を観る力、交感する力が、反映され、撮り手が試されるのだと思います。 今回はこの辺で。今思うことをつらつらと。また変わりそうですが・・・。 ではでは、今後、これを読む自分、頑張れよ。 |
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SMILES [笑顔写真十七枚]
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- 2006/12/05(Tue) -
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