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photograph?
- 2011/11/30(Wed) -
写真はおそらく、

沒-可能的であり、沒-形式的。

意識ではなく、自己ではない。

対象であり、社会的である。

過去 (非-同時的)であり、現在である。


000018.jpg




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Dayanita Singh
- 2011/11/25(Fri) -
Why does it matter where she made this picture?
What does the location satisfy except your curiosity?
The where and when of photography are constructing, as is
the question of who made the picture, Indian eyes or Swiss one?
It's boring.

― 2011 Dayanita Singh
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あるのに、見えない。
- 2011/08/18(Thu) -
20110812

フィルムカメラを愛用してきた人達はみな、人生に何度か経験する。フィルムの巻き上げを忘れて、
裏蓋を開けてしまう災難(悪夢と言っていい)。古いカメラの中にも、フィルムを最後まで巻き上げないと、裏蓋が開かないなんていう、親切なカメラもあるが、ぼくのretinaも含め、たいていのアンティークに、そんな配慮はない。裏蓋をうっかり開けて、感光し、真っ黒になったフィルムの表面には、きっと、あの時撮影した人や風景が含まれているのに、ぼくは黒の内側に、それを見つけられない。

まあ、ただの失敗話です。
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メモ
- 2011/05/24(Tue) -
『孟子』紀元前372年頃 - 紀元前289年


孟子曰、仁之実、事親是也。義之実、従兄是也。智之実、知斯二者弗去是也。礼之実、節文斯二者是也。楽之実、楽斯二者。楽則生矣 。生則悪可已也。悪可己、則不知足之踏之手之舞之。

―――――

孟子曰、人皆有所不忍、達之於其所忍、仁也、人皆有所不爲、達之於其所爲、義也、人能充無欲害人之心、而仁不可勝用也、人能充無穿踰之心、而義不可勝用也、人能充無受爾汝之實、無所往而不爲義也、士未可以言而言、是以言餂之也、可以言而不言、是以不言餂之也。是皆穿踰之類也。

―――――

貉稽曰、稽大不理於口。孟子曰、無傷也。士憎茲多口。詩云、憂心悄悄、慍于群小。孔子也。肆不殄厥慍、亦不殞厥問、文王也。

―――――

告子日、食色性也。仁内也。非外也。義外也。非内也。孟子日、何以謂仁内義外也。日、彼長而我長之、非有長於我也。猶彼白而我白之。従其白於外也、故謂之外也。曰、白馬之白也、無以異於白人之白也。不識長馬之長也、無以異於長人之長与。且謂、長者義乎、長之者義乎。曰、吾弟則愛之、秦人之弟則不愛也。是以我為悦者也。故謂之内。長楚人之長、亦長吾之長、是以長為悦者也。故謂之外也。曰、耆秦人之炙、無以異於耆吾炙。夫物則亦有然者也。然則耆炙亦有外与。
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メモ
- 2011/05/23(Mon) -
読書メモ(抜書)

『イスラームと西洋 ジャック・デリダとの出会い、対話』ムスタファ・シェリフ、2007、駿河台出版社

【68頁7行目〜】

デリダ「来るべき民主主義(デモクラシー)は非宗教性を前提とします。すなわち教権政や神学の領域からの政治の解放、したがって政治におけるある程度の世俗性と同時に、もちろん首尾一貫した明確なやり方で国家から保証される宗教の自由、絶対的な宗教的自由を前提としていると思います。それは当然のことながら、政治という非宗教的空間と、宗教的空間が混同されないという条件付きでの話です。現状においては何らかの非宗教性の概念が必要であると私は思います。非宗教性の概念といっても、フランスで国家と宗教の危機が叫ばれた時期に見られた、攻撃的な類いのものではもはやありません。今日の非宗教性というものは、自分自身に対してさらに厳格である一方で、諸宗教文化に対して、そしてまた、宗教的実践が混同や曖昧さが無いかたちで自由に保証される可能性に対しては、今まで以上に寛容でなければならないと思います。もちろんある社会における自律した個人なるものについて、いったいそれがなんであるのか、私自身、はっきり分かっているかというと自信はありません。自律した個人とは、自らに法を与える主体、主権を持つ主体であり、その点についてもさらに、そのような個人である自由は、ある程度の他律的態度、すなわち他者の法をある程度承認することが前提になっていると考えたくなります。法とはある意味、常に他者の法なのです。しかしこの他律はいかなる隷属も、いかなる従属も前提としていません。従って宗教的共同体は、非宗教的な空間にありながらも、その空間を脅かすこと無く、個人の自由をしっかり尊重するかたちで何の問題も無く宗教的共同体として組織されうるのです。換言すると、個人的な話・・・、おそらく今から私はある個人的な特異性を皆さんにお聞かせしようとしているのでしょうが、私はいつも宗教的な共同体主義、すなわち、個人を圧迫し、個人が非宗教的市民として行動することを拒む群居性の共同体形式に対しては抵抗する傾向がありました。宗教的であると同時に、宗教的共同体によって群居化されている意識も持たずに、非宗教的市民として行動することは可能なのです。ということは、あなたは二つのレベルの有機的連関について話されていることになります。関連づけるのが非常に難しいのは、今日フランスがはまり込んでいる問題です。もちろんフランスだけの問題ではありませんが、それは個人の自由あるいは市民の自由と、個人の宗教的共同体への帰属をできるかぎり平和裏に結びつけるという問題です。ただし宗教的共同体への帰属が抑圧的、弾圧的、強制的なものでない限りにおいての話です。だから私は国家が責任を持つことを信じています。なぜかというと、私は先ほど主権を持つ国民−国家の凋落あるいは危機という主題についてお話ししましたが、それでもやはり私たちは国家を必要としているからです。したがって、私は反=国家管理主義者ではありません。私は国家の主権と、その起源についていくつかの問いを自らにたてています。そもそもその起源は神学的といえるのです。私たちの生活の基盤ともいえる政治にまつわる諸概念は、世俗化した神学的諸概念であると私は考えています。したがって私は国家の主権という観念や、もっと言うなら国家という観念の宗教的起源について自問しているのですが、そう問いかけながらも、私はやはり国家の必要性に対して真正面から異を唱えたりできないのです。国家なるものはいくつかの条件において(まさにその都度評価し直して、責任をとる必要があるのはこれらの条件なのです)、非宗教性、あるいは諸宗教的共同体の生活の保証人でありうるのです。国家は、何らかの経済的勢力、度を越した経済的な集中、経済的権力をもつ国際的な勢力に抵抗することができます。こう考えると、国家はそれ自体が悪いものではないと思うのです。たとえ、国家の主権や、本質的には神学的なその起源について絶えず問いかけてゆかねばならないとしてもです。そしてそこにこそ困難な仕事、私が脱構築と呼ぶものがあり、それは次のような行動を同時に行うことです。一方で、例えば西洋思想、とりわけ西洋思想を織りなしている政治の諸概念における神学的な系譜について問いかけること。他方で、ある決まった文脈、限定可能な文脈において、今まさに問いに付され、脱構築されているこれらの概念の存続を維持すること、この二つを同時に行うことなのです。もちろん私たち皆に直接かかわる諸問題を避けないようにしましょう。それは、いわば西洋、西洋と呼ばれているもの、実は二つに分けて考えねばならない概念(ヨーロッパ的西洋はアメリカ的西洋ではありません)と、単純にアラブ・イスラーム世界ではなく、これまた分けて考えなければならない東洋、との間で生起する諸問題です。しかしながら、これらの諸問題において、あなたが対話とお呼びになったもの、[私の言い方では]暴力をもちいずに他者に対して向けられる言葉が成立する条件とは、先ほど私がお話しした〈来るべき民主主義〉を全員が承諾することであると私は思うのです。この来たるべき民主主義は脱構築、つまり国民国家の主権について提起される脱構築的な問いかけ、政治の本来的な意味における非宗教化、すなわち神権政治と政治の分離を前提とします。私たちは(・・・・・・)、この場合、私はフランス人、西洋人、つまるところ西洋哲学者として話しているのですが、私たちが最優先の責務とみなすべきなのは、アラブ・イスラーム世界において政治の非宗教化という観念や、神権政治と政治の分離という観念を広めようと努力している組織あるいは個人と連携することだと思います。そしてこのことはまた、政治や民主化への敬意だけでなく、信仰や宗教に対して敬意が払われてこそ実現することでしょう。[地中海南北]両岸から、神権政治と政治の分離を成し遂げる必要があります。これにはもちろん政治的なものという概念の変化、とりわけ政治的なものという概念の非宗教化、と私が呼んでいることについて自問する必要があります。政治的なものというのは、いわゆる〈西洋的な〉政治思想において最も基本的な概念の一つとして残っていますが、根本的には神学的なものなのです。」
【以下ムスタファ・シェリフによる地の文】今日でもなおこの問題意識は有効なのですが、相互理解の実践こそが最も重要であると私は思います。まず、目の前の事象を見てみましょう。生き方を学ぶ難しさ、不正行為、数々の失敗、袋小路、諸々の潮流、それから近代的理性、各宗派の教会等々。次に、私たちイスラーム教徒が大事にしている二つの自覚を見てみましょう。第一に、〈存在する〉こととは本質的に言って、神秘と開示という形態であらわれる、という自覚です。神秘と開示は、表面にははっきりあらわれず、いわば姿を隠しているので、そのままの姿でそれを受け入れる必要があります。第二に、切っても切り離せない同質性と多様性の関係はどうしても無視できない、という自覚です。つまり、イスラーム教徒の記憶の奥底で共鳴している数々の主要な動向によって補強されている二つの次元の関係です。このように、先述した数々の事象や、二つの自覚を見るにつけて、やはり相互理解は最重要課題といえます。西洋人の中には、きわめて重要な諸段階、つまり霊的な意味と、論理の意味や正義の意味との間には一貫性など一切ありえないし、いかなる結びつきも不可能であるし、いかなる交流もありえないと考える人もいます。ところで、イスラーム側は、イスラームこそが神秘への誘い(いざない)、神の啓示に忠誠を誓い、この現世の人生こそが最終目的であるという宗教的なヴィジョンをとりわけ愛する者であろうと欲しているのです。そうするからといって、イスラームが宗教と政治を区別していないわけではなく、前述のように、この二つの次元をなるべく対立させないように、目の前で生じていることをしっかり見据えてそれに参加しようという配慮も見せているのです。確かに今世紀のイスラームは遅れていて、さらに悪いことに、イスラーム教徒の一部が致命的なやり方で宗教を道具化し、不寛容に身を委ねてしまっているがために反近代的なものと見なされているわけですが・・・。こういった矛盾や急進的潮流という否定的な事実、なおかつ、天によって大地が破壊されない限りはイスラームも世俗界をなおざりにしたりはしない、という積極的な事実をも超えたところで、やはり神秘との関係はイスラーム教徒の信仰の中心から離れてはいないのです。私はその点が、他者とは異なる点であることが分かっていたので、次のように問いを立てました。「現代哲学は神秘の問題について何を語ることができるのでしょうか?」
晴れやかな笑みを浮かべ、デリダはこう答えました。
デリダ「私が学生の頃は、ガブリエル・マルセルの伝統に連なる形で神秘(ミステール)と問題(プロブレム)はしばしば区別されました。つまり哲学的な生成の対象である問題と、問題化しえない神秘という区別です。しかしここで神秘と問題の概念についてこれ以上深入りするつもりはありません。私が言いたいのは、科学は生命、遺伝子、生物学についての学識同様、存在としての生命という意味における神秘についての学識に関しても未知のものを知ることによって発展し続けるべきであり、この見方からすると、あらゆるものは生活の中に未知なまま残されている何かに触れている、と言えるでしょう。たとえ政治を非宗教化する、すなわち政治と神権政治を区別したからといって、いかなる点においても、あなたが生命の神秘と呼ばれたものや、信仰の諸問題についての理解を深めることが制限されるようなことは無いと思います。個人的に、私はいつも信仰と宗教を区別しています。いくつかの宗教があり、いくつかの建設的な宗教があり、それらは複数で、人々はそのうちどれかに帰属することもできるし、帰属しないままでもいられます。また、私がアブラハム的と呼ぶいくつかの宗教があります。それは、お互いに共通する起源を持つユダヤ教、キリスト教、イスラーム教です。宗教的と呼ばれて入るもののおそらく宗教とはいえないその他の文化もいくつかあります。つまり宗教という概念は一つの曖昧な概念なのです。私は『信仰と知』の中で、このテーマについて、宗教の概念そのものの曖昧さについて書こうとしました。はたして仏教は一つの宗教なのでしょうか? 道教は一つの宗教なのでしょうか? これらは本質的な問いかけですが、この場では脇に置いておかねばなりません。そこまで話を広げずにこの対談の場では、私たちが慣習的に〈聖書〉の三宗教というアブラハム的世界の宗教と呼んでいるものだけに話を限定するならば、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教への宗教的帰属と、あらゆる社会的関係を可能にしている基礎としての信仰というもの、これらを区別したいと思います。私はどんな人であれ、その人の宗教、その人が話す言葉、その人の教養がどんなものであれ、彼に〈私を信じてください〉、〈私を信頼してください〉と頼まずには、その他者に声をかけることはできません。他者との関係、他者への語りかけには信仰が前提とされています。誰かが嘘をついているとか嘘をついていないとかを証明することは決してできないし、証拠立てることなど決してできないでしょう。証拠立てることは不可能です。私は何か間違ったことを言ったかもしれないが心の底からそういったのであって、間違っていただけだ、嘘をついたわけではない、人はいつもこのように言うでしょう。このような見地に立つと、誰かが私たちに言葉をかけるとき、その人は自分のことを信じてくれるように頼んでいるのです。そして、この信仰によって金融市場で使われる意味での信用や、社会的信用、社会における認証や正式な承認のあらゆる形態とまったく同じように、言葉の交換が保証されるのです。この信仰は社会的絆それ自体の条件です。信仰無くして社会的絆はありえません。さて、いま私が定義した信仰の必要性を強く主張することによって、政治の非宗教化を推しすすめることができると思います。それに、普遍的で、みなが共有しているこの信仰、それが無ければ社会的絆がありえないような信仰という土台に基づいてこそ、厳密な意味での宗教的帰属を尊重できますし、尊重しなければならないのです。だから、真の信者、つまり真の意味でのユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒たち、これらの単なる教条主義者ではない者たち、宗教的信仰に真の意味でどっぷりつかっている者たちは、そうでない者たちよりも他者の宗教を理解し、先ほど私がその普遍的な構造を説明した〈信仰〉に到達する素地がある、と私は確信しています。したがって、政治の非宗教化と、あなた方の生命の神秘と呼ばれたこととの関係、すなわち信仰の中で一緒に生きるという事実との間に矛盾は無いと考えています。」
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ほけきょう
- 2011/02/24(Thu) -
藤牧義夫の版画に、
宮沢賢治の詩や小説のようなところはないらしい。
(ぼくもそう思う。)

また藤牧義夫は、法華経を北一輝のように詠んだりもしない。
(北一輝の詠唱は方便だという。そうかもしれない。)
(石原莞爾はどうだろうか?また違うか。)

(なんであれ、当時の国柱会は、奇妙だ。)
不思議な人が集まってきては、散り散りになっている。

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リービ英雄 2
- 2010/07/21(Wed) -
"しづけさや"

は、単なるquietではなく、
むしろstillnessに近い、
 
音が立たないだけではなく、
音が立つような動きすらない。
 
音も動きもない世界を想像しなさい、
と言われたのである。(S大学の教授から)
       
― リービ英雄『千々にくだけて』より
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リービ英雄 1
- 2010/07/21(Wed) -
松尾芭蕉 松島の句

島々や 千々にくだけて 夏の海


        All those islands!
        Broken into thousands of pieces,
        The summer sea.
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「ナイフ」と「ぼくのエリ」
- 2010/07/21(Wed) -
地下鉄に乗りこむ。

鞄から重松清の『ナイフ』のコピーを取り出し、
読みはじめる。


「私には、ナイフがある。」


これからぼくは、銀座のテアトルで『ぼくのエリ 200歳の少女(Låt den rätte komma in)』
を見る。

______________

映画の冒頭。
12歳の少年が、窓のそとを眺めている。雪。
少年はアンティーク調のナイフを右手に掲げる。
ナイフは三角形にキラリと光る。

____

『ナイフ』の中で、父親が500円で買ったナイフを想い出す。
小さくって、ちゃちいナイフ。

だが、ナイフの大きさは関係無く、「私には、ナイフがある。」と思えることに、
登場人物たちにとっての、意味があるようだ。
『ナイフ』の父親と息子も、『ぼくのエリ 200歳の少女(Låt den rätte komma in)』のオスカーも、いじめられる役。

映画も小説もそれぞれの終り方をした。


_____________

重松清のことはなんとなく苦手だったけど、
あの日、酒場で怒り狂う重松清さんの顔は、
なんとなく僕のなかで『ナイフ』の父親と重なって、
もうあまり憎めるものではない。



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